エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838~1925)は、アメリカ人の動物学者で貝の研究をしていました。
1877年(明治10)腕足類という貝の研究のため来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見しました。
これが大森貝塚です。
貝塚とは大昔のゴミ捨て場で、貝以外にも動物の骨・土器・石器など様々なものが見つかっています。
モース博士による発掘は1877(明治10)年9月から12月に行われました。
1879年(明治12)には日本初の発掘報告書である“Shell Mounds of Omori”を出版しました。
彼はその報告書の中で、大森貝塚から発見された土器に縄目模様があることから「cord marked pottery」と名付けます。これを後に日本人の学者がいろいろと日本語に訳しますが、その中で白井光太郎という学者が「縄紋」と訳しました。
この名称が定着し、後に「縄文」と書かれるようになりました。(現在は、「縄文」と書く研究者と「縄紋」と書く研究者の両方がいます。)
この発掘は日本初の学術的発掘であり、このことから大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれています。
その後、1984年と1993年の大森貝塚遺跡庭園整備などの発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に見つかりました。1984年、1993年の発掘資料のいくつかは、品川歴史館に展示しています。
モースと貝塚(大森貝塚・大野貝塚)
大森貝塚発掘風景(1877年)“Shell Mounds of Omori”より

モースは1879年5月初めから40日余、九州、近畿地方に採集旅行をし、氷川町の大野貝塚にも訪れています。
大野貝塚は熊本県八代(やつしろ)郡氷川(ひかわ)町大野、国道3号沿いの同地区の小学校付近一帯にある遺跡。縄文時代後期の土器片、人骨などの出土が知られているが、近年ほとんどの地域が宅地化して壊滅寸前にある。本貝塚は1879年(明治12)モースが九州旅行中同貝塚を訪れており、モースの滞日日記『日本その日その日』にも掲載され、九州地方では学界にもっとも古く知られた縄文文化の貝塚遺跡の一つである。
【大野貝塚】
竜北村大字高塚字硴原(かきはら)・大字大野字太尾
小さい谷川をはさんで西面した台地突端へ流れ出す谷郷川の河口一帯に約3000坪にも及ぶ広大な面積の貝塚がある。
これが大野貝塚である。現在は、竜北東部小学校の敷地と、小学校地下の西面地帯および谷郷川の北東河岸周辺部地帯にその遺構が残っている。
大正五年(1916)8月10日の登録によれば、吉野村、桑原四作・岩崎達徳・白石正男・上村作次郎、合計2,488坪(『史跡の吉野』編集者・宮村剛、竜北村教育委員会事務局発行昭和31年(1956)8月1日)となっており、竜北東部小学校(旧吉野小学校)の改築が数回行われた折、貝塚もこわされているので全貌は明らかではない。 
モースと貝塚(大森貝塚・大野貝塚)
大野貝塚の場所についてしらべていると最終的に竜北東部小学校があった場所にたどり着きました。
この碑は昭和50年(1975)に開校百周年を記念して学校の跡地に建てられたものです。
この地に学校の校舎が建った明治二十五年(1892)四月、吉野尋常小学校として校舎の建築がなされています。
モースがこの貝塚を探索したのは明治12年(1879)ですので、この小高い地形から考えればまだ貝塚は残っていたと思えます。
モースと貝塚(大森貝塚・大野貝塚)
モースと貝塚(大森貝塚・大野貝塚)
モースと貝塚(大森貝塚・大野貝塚)
モースと貝塚(大森貝塚・大野貝塚)
モースと貝塚(大森貝塚・大野貝塚)
モースと貝塚(大森貝塚・大野貝塚)
モースと貝塚(大森貝塚・大野貝塚)

竜北村史の記載より・・
この貝塚は、明治初年に貝灰が焼かれたため、北の大半は破損され、南の方は明治21年(1888)に学校敷地となり、この頃校地整地工事のため南側の方も壊されている。
その折にたくさんの縄文式土器片や石器・獣骨片などが出たときいている。その後、明治43年(1910)、昭和13年(1938)、昭和38年(1963)と校舎改築がなされたが、昭和13年の校庭拡張工事のため、その大部分がこわされており、現在は新校舎の裏側・谷郷川の上に面する傾斜面に少しだけ貝層をとどめている。
また明治25年(1892)学校敷地の工事中に、数多くの人骨が発見され、その人骨は東側に埋められたというがその地点は明らかではない。その一部は裏山に葬られ「貝塚人骨之塔?」と書いた碑が建てられている。
この貝塚から出土する土器は、阿高式・出水式・南福寺式などがあり、貝類は主としてハイ貝・カキ・マテ貝・ハマグリ・アサリ・アカニシ・ツメタ貝などの海水産で、魚骨・獣骨・人骨・石器類を出土する。また石器では石斧・たたき石・剥片石器・貝釧なども見られる。
貝釧・・ 貝製の腕輪。縄文時代では二枚貝に穴をあけ多数をつづり合わせて上腕にはめたが、古墳時代には巻き貝に穴をあけて腕にはめる形式のものが多く、スイジガイを模した青銅製のものもある。


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