2017年07月30日
三女神の出現④【空白の4世紀について】
ヤマト政権が沖ノ島(福岡県宗像市)で朝鮮半島航路の航海安全を祈る祭祀を始めたのは4世紀後半とされる。当時、危険な航海にのぞむ目的の一つは鉄資源の確保だった。

軍事や農漁業生産に大きな力を左右する鉄は古代国家の命運を左右する物資だった。しかし、多くは国内生産できず、朝鮮半島から調達していたとみられる。日本書紀には「百済の肖古王(しょうこおう)(中略)鉄鋌・てつてい四十枚を爾波移・にはやに幣(あた)ふ」との記述がある。4世紀後半に百済の王が日本の使者(爾波移)に鉄板40枚を贈った。そのことが外交の大きな成果として語られている。実際に、沖ノ島の4~5世紀の祭祀遺跡には複数の鉄鋌がささげられている。ところが、九州本土の宗像市の久原滝ヶ下遺跡では、3世紀後半頃の住居跡から鉄の斧が見つかっている。
国家的に貴重な鉄器がなぜ地方の住居に、しかも沖ノ島での奉献よりも100年早い時期にあったのか。沖ノ島での戦後3回の学術調査にすべて参加した小田富士雄・福岡大名誉教授(考古学)は「大和王権が沖ノ島での祭祀に乗り出す前に、在地の海人族(漁業や海運などを手掛けた集団)が自由に朝鮮半島へ渡って交易し、入手していたのだろう」と分析する。
近年では、ヤマト王権による国家的祭祀が始まる以前に、宗像氏につながる海人族が独自に、土器などを使った祭祀を沖ノ島で行っていた可能性も指摘されている。ただ、その規模や形態は国家的祭祀とは異なるようだ。
ヤマト王権が持ち込んだ祭祀は、それまでの素朴な祭りとは別の革新的なもので、小田名誉教授は「九州では沖ノ島で初めて導入された」とみる。

歴史学者の三品彰英氏(故人)は論文で、稲作が営まれた弥生時代以降、青銅器の銅鐸や銅剣などを使って大地や穀物の霊を祭る「地的宗儀・ちてきしゅうぎ」が各地で広く行われていたが、天界への信仰を中心とする宗教儀式「天的宗儀」に移行していったとしている。それを推進したのが、天上の「高天原」などの神話をいただくヤマト王権というわけだ。
絶海の孤島にそびえ立つ巨岩を舞台に、鏡などを使って天から神を降臨させる儀式の印象は強烈で、ヤマトの権威の誇示になったはずだ。天を意識した祭りは、宗像大社の祭神・宗像三女神が天上で誕生し、沖ノ島、宗像市沖合の大島、九州本土の3カ所に「降臨」した神話ともイメージが重なる。沖ノ島での祭祀は海人族の信仰が起源と言える。それを政治的に利用し、祭祀を発展させたヤマト王権も「神宿る島」に最大の敬意を払った。地元で脈々と受け継がれた祈りと、圧倒的な権威を示す国家の祭り。その接点が三女神信仰だったのかもしれない。

265年、魏が滅び晋(西晋)王朝が起こる。それに対し、邪馬台国王は翌266年、時を置かず直ちに晋への朝貢を行った。
この邪馬台国の機敏な動きというのは、裏を返すと、急いで新王朝の臣下として庇護を請わなければ危うい、という危機感があったものと考えられる。すなわち、東アジアの国際社会に於ける邪馬台国(乃至は新生ヤマト王国)の力はまだまだ脆弱であったことが明らかである。
しかし、その晋も長くは続かなかった。

晋・司馬王朝は、残存勢力が中国南部で東晋として生き延びはしたが、中原(天下の中央・華北地方)では遊牧民族・匈奴の単于(ぜんう=皇帝)・劉淵に支配される(後の前趙)こととなり、実質的に滅びた。中国北部いわゆる中原は、万里の長城で侵入を抑えたはずの辺境の遊牧民族、五胡即ち匈奴・鮮卑・羯(けつ・匈奴の一部族)・氐(てい)・羌(きょう)が支配する時代、五胡十六国と称される時代になって行った。
朝鮮半島では、中国王朝の半島経営がすっかり衰退した中、強力な高句麗が楽浪郡や帯方郡を併呑し、勢力を広げた。また倭と同様、クニ・国を纏めた緩い連合国家レベルでしかなかった馬韓や辰韓からも、それぞれ百済王国と新羅王国とが勃興した。
この時代、基本的には中国の正史などの史料が欠落しており、倭や韓に関しては、「空白の四世紀」とよばれる。
倭が、確かな記録として再度登場するのは、広開土王碑の391年の条の記事である。
「百残(百済)と新羅とは、旧より(高句麗の)属民にして、由来、朝貢せり。而(しか)るに倭は、辛卯の年(391年)、渡海し来たり、百残を破り、新羅を■■し、以って臣民と為す」というような記事が石碑に彫られている。
すなわち、史料が途切れていた125年の間に、倭は軍団を朝鮮半島へ渡海させ、高句麗の属国を侵略し,従属させるほどの強国に成長して再登場することになる。
ヤマト王権は沖ノ島の祭祀に膨大な財力を投入し、おそらく宗像族(海人、漁撈民の一大勢力:前項で触れた「男子は大小と無く、皆黥面文身す」というのはこの集団かもしれない。)を支配下に置き、半島ルートを掌中にした。王権がそれほど拘(こだわ)った理由は、最重要物資「鉄」の確保であったと思われる。
3世紀頃のことを記した魏志弁辰伝に「国(弁辰のこと)は鉄を出し、韓・濊(わい)・倭、皆な従いてこれを取る。諸々の売り買いには皆な鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とある。
倭人は弥生時代から鉄の原料を半島の資源に依存してきた。
この状況は古墳時代にあっても基本的に変わらなかったようである。古墳から右の写真のような“鉄てい”と呼ばれる短冊形の鉄素材が出土する。
成分分析から金海・釜山地域からの搬入品である可能性が高い。上の写真の鉄ていはそれぞれ別の古墳から出土したものであるが、重さや形に一定の規格が認められるので、貨幣に代わるような機能を果たしていた可能性も強い。
考古学の都出比呂志は---倭王権がこのような半島からの鉄素材供給ルートを掌握し、列島各地の首長への分配をコントロールすることを通して、覇権を握っていった。---と想定していると述べています。



ヤマト政権がどのように形成されていったのか空白の4世紀を明らかにする遺物の数々が 玄界灘に沖ノ島という絶海の孤島に存在する。
4世紀後半この沖ノ島で、「海北道中(うみきたのみちなか)」(日本書紀に記された朝鮮への最短航路)の守り神の祭祀が、本格的に行われるようになった。当時、先進地域であった九州の豪族と云えども、彼等が独力で行えるレベルのものではなく、この祭祀にかかわる遺物8万点は、全てが国宝に指定されたほどであり、海の正倉院と呼ばれるほど豪奢なものである。 このことは4世紀半ばまでに朝鮮半島と倭を結ぶ最短ルート、「海北道中」をヤマト王権が掌握したことを物語ると考えられる。「海北道中」航路を通じて、倭で産出した物品が、盛んに交易されたことも朝鮮南部の主要遺跡に倭系遺物の分布を調べることから解ってきました。
2~3世紀の墳墓群が中心の良洞里遺跡から出土した倭系の遺物は、小型仿製鏡や中広形銅矛など、弥生後期の北部九州で製作されたとみられるものが少なくない。
ところが同じ金海の大成洞遺跡や、釜山東の東萊(とうね)の福泉洞遺跡の4世紀代の墳墓群からは、倭系の遺物として、巴形銅器や碧玉製石製品・筒型銅器など、いずれも畿内のヤマトを中心に分布しているものが出土した。
これは3~4世紀にかけて朝鮮半島の伽耶地区との交流の当事者が、北九州の勢力から畿内の勢力へと急激に転換した結果であると考えることができる。これは邪馬台王権の時代、外交・交易の利権を握っていた伊都国の勢力が後退し、それに代わって、畿内を基盤とするヤマト王権が、全権を掌握する時代となったと考えられる。
重要なことは、金海や釜山、慶州や馬山で4世紀~5世紀前半、倭で日常的に使われていた土師器系の土器(縄文土器~弥生土器に連なる野焼き土器)が出土することである。これはヤマト王権が半島との交流ルートを掌握したことにともない、交流の担い手として送り込まれたヤマトの人々と、半島に定着した彼等の子孫たちが残した土器であったと思われます。倭国は、“渡来人”を一方的に受け入れるだけでなく、自らも朝鮮半島に渡って定住し、交易などに力を振るったと考えられる。
これらの考古学的証拠から4世紀はヤマト王権が内政はもちろんのこと、外交・交易までその権力を掌中に収め、倭国に於ける支配権を確立した時代であったということが出来るだろう。
さらに敷衍すれば、この時代は、ヤマトの勢力(王権)が列島主要部の政治的統合が実現した勢いを持って、朝鮮半島にまで政治的・帝国主義的介入を企図した世紀であったということも出来るだろう。

ヤマト政権の発展には鉄が必要であり安全祈願のために三女神は生まれてきた。

軍事や農漁業生産に大きな力を左右する鉄は古代国家の命運を左右する物資だった。しかし、多くは国内生産できず、朝鮮半島から調達していたとみられる。日本書紀には「百済の肖古王(しょうこおう)(中略)鉄鋌・てつてい四十枚を爾波移・にはやに幣(あた)ふ」との記述がある。4世紀後半に百済の王が日本の使者(爾波移)に鉄板40枚を贈った。そのことが外交の大きな成果として語られている。実際に、沖ノ島の4~5世紀の祭祀遺跡には複数の鉄鋌がささげられている。ところが、九州本土の宗像市の久原滝ヶ下遺跡では、3世紀後半頃の住居跡から鉄の斧が見つかっている。
国家的に貴重な鉄器がなぜ地方の住居に、しかも沖ノ島での奉献よりも100年早い時期にあったのか。沖ノ島での戦後3回の学術調査にすべて参加した小田富士雄・福岡大名誉教授(考古学)は「大和王権が沖ノ島での祭祀に乗り出す前に、在地の海人族(漁業や海運などを手掛けた集団)が自由に朝鮮半島へ渡って交易し、入手していたのだろう」と分析する。
近年では、ヤマト王権による国家的祭祀が始まる以前に、宗像氏につながる海人族が独自に、土器などを使った祭祀を沖ノ島で行っていた可能性も指摘されている。ただ、その規模や形態は国家的祭祀とは異なるようだ。
ヤマト王権が持ち込んだ祭祀は、それまでの素朴な祭りとは別の革新的なもので、小田名誉教授は「九州では沖ノ島で初めて導入された」とみる。

歴史学者の三品彰英氏(故人)は論文で、稲作が営まれた弥生時代以降、青銅器の銅鐸や銅剣などを使って大地や穀物の霊を祭る「地的宗儀・ちてきしゅうぎ」が各地で広く行われていたが、天界への信仰を中心とする宗教儀式「天的宗儀」に移行していったとしている。それを推進したのが、天上の「高天原」などの神話をいただくヤマト王権というわけだ。
絶海の孤島にそびえ立つ巨岩を舞台に、鏡などを使って天から神を降臨させる儀式の印象は強烈で、ヤマトの権威の誇示になったはずだ。天を意識した祭りは、宗像大社の祭神・宗像三女神が天上で誕生し、沖ノ島、宗像市沖合の大島、九州本土の3カ所に「降臨」した神話ともイメージが重なる。沖ノ島での祭祀は海人族の信仰が起源と言える。それを政治的に利用し、祭祀を発展させたヤマト王権も「神宿る島」に最大の敬意を払った。地元で脈々と受け継がれた祈りと、圧倒的な権威を示す国家の祭り。その接点が三女神信仰だったのかもしれない。

265年、魏が滅び晋(西晋)王朝が起こる。それに対し、邪馬台国王は翌266年、時を置かず直ちに晋への朝貢を行った。
この邪馬台国の機敏な動きというのは、裏を返すと、急いで新王朝の臣下として庇護を請わなければ危うい、という危機感があったものと考えられる。すなわち、東アジアの国際社会に於ける邪馬台国(乃至は新生ヤマト王国)の力はまだまだ脆弱であったことが明らかである。
しかし、その晋も長くは続かなかった。

晋・司馬王朝は、残存勢力が中国南部で東晋として生き延びはしたが、中原(天下の中央・華北地方)では遊牧民族・匈奴の単于(ぜんう=皇帝)・劉淵に支配される(後の前趙)こととなり、実質的に滅びた。中国北部いわゆる中原は、万里の長城で侵入を抑えたはずの辺境の遊牧民族、五胡即ち匈奴・鮮卑・羯(けつ・匈奴の一部族)・氐(てい)・羌(きょう)が支配する時代、五胡十六国と称される時代になって行った。
朝鮮半島では、中国王朝の半島経営がすっかり衰退した中、強力な高句麗が楽浪郡や帯方郡を併呑し、勢力を広げた。また倭と同様、クニ・国を纏めた緩い連合国家レベルでしかなかった馬韓や辰韓からも、それぞれ百済王国と新羅王国とが勃興した。
この時代、基本的には中国の正史などの史料が欠落しており、倭や韓に関しては、「空白の四世紀」とよばれる。
倭が、確かな記録として再度登場するのは、広開土王碑の391年の条の記事である。
「百残(百済)と新羅とは、旧より(高句麗の)属民にして、由来、朝貢せり。而(しか)るに倭は、辛卯の年(391年)、渡海し来たり、百残を破り、新羅を■■し、以って臣民と為す」というような記事が石碑に彫られている。
すなわち、史料が途切れていた125年の間に、倭は軍団を朝鮮半島へ渡海させ、高句麗の属国を侵略し,従属させるほどの強国に成長して再登場することになる。
ヤマト王権は沖ノ島の祭祀に膨大な財力を投入し、おそらく宗像族(海人、漁撈民の一大勢力:前項で触れた「男子は大小と無く、皆黥面文身す」というのはこの集団かもしれない。)を支配下に置き、半島ルートを掌中にした。王権がそれほど拘(こだわ)った理由は、最重要物資「鉄」の確保であったと思われる。
3世紀頃のことを記した魏志弁辰伝に「国(弁辰のこと)は鉄を出し、韓・濊(わい)・倭、皆な従いてこれを取る。諸々の売り買いには皆な鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とある。
倭人は弥生時代から鉄の原料を半島の資源に依存してきた。
この状況は古墳時代にあっても基本的に変わらなかったようである。古墳から右の写真のような“鉄てい”と呼ばれる短冊形の鉄素材が出土する。
成分分析から金海・釜山地域からの搬入品である可能性が高い。上の写真の鉄ていはそれぞれ別の古墳から出土したものであるが、重さや形に一定の規格が認められるので、貨幣に代わるような機能を果たしていた可能性も強い。
考古学の都出比呂志は---倭王権がこのような半島からの鉄素材供給ルートを掌握し、列島各地の首長への分配をコントロールすることを通して、覇権を握っていった。---と想定していると述べています。



ヤマト政権がどのように形成されていったのか空白の4世紀を明らかにする遺物の数々が 玄界灘に沖ノ島という絶海の孤島に存在する。
4世紀後半この沖ノ島で、「海北道中(うみきたのみちなか)」(日本書紀に記された朝鮮への最短航路)の守り神の祭祀が、本格的に行われるようになった。当時、先進地域であった九州の豪族と云えども、彼等が独力で行えるレベルのものではなく、この祭祀にかかわる遺物8万点は、全てが国宝に指定されたほどであり、海の正倉院と呼ばれるほど豪奢なものである。 このことは4世紀半ばまでに朝鮮半島と倭を結ぶ最短ルート、「海北道中」をヤマト王権が掌握したことを物語ると考えられる。「海北道中」航路を通じて、倭で産出した物品が、盛んに交易されたことも朝鮮南部の主要遺跡に倭系遺物の分布を調べることから解ってきました。
2~3世紀の墳墓群が中心の良洞里遺跡から出土した倭系の遺物は、小型仿製鏡や中広形銅矛など、弥生後期の北部九州で製作されたとみられるものが少なくない。
ところが同じ金海の大成洞遺跡や、釜山東の東萊(とうね)の福泉洞遺跡の4世紀代の墳墓群からは、倭系の遺物として、巴形銅器や碧玉製石製品・筒型銅器など、いずれも畿内のヤマトを中心に分布しているものが出土した。
これは3~4世紀にかけて朝鮮半島の伽耶地区との交流の当事者が、北九州の勢力から畿内の勢力へと急激に転換した結果であると考えることができる。これは邪馬台王権の時代、外交・交易の利権を握っていた伊都国の勢力が後退し、それに代わって、畿内を基盤とするヤマト王権が、全権を掌握する時代となったと考えられる。
重要なことは、金海や釜山、慶州や馬山で4世紀~5世紀前半、倭で日常的に使われていた土師器系の土器(縄文土器~弥生土器に連なる野焼き土器)が出土することである。これはヤマト王権が半島との交流ルートを掌握したことにともない、交流の担い手として送り込まれたヤマトの人々と、半島に定着した彼等の子孫たちが残した土器であったと思われます。倭国は、“渡来人”を一方的に受け入れるだけでなく、自らも朝鮮半島に渡って定住し、交易などに力を振るったと考えられる。
これらの考古学的証拠から4世紀はヤマト王権が内政はもちろんのこと、外交・交易までその権力を掌中に収め、倭国に於ける支配権を確立した時代であったということが出来るだろう。
さらに敷衍すれば、この時代は、ヤマトの勢力(王権)が列島主要部の政治的統合が実現した勢いを持って、朝鮮半島にまで政治的・帝国主義的介入を企図した世紀であったということも出来るだろう。

ヤマト政権の発展には鉄が必要であり安全祈願のために三女神は生まれてきた。
Posted by マー君 at 16:07│Comments(0)
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