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Posted by おてもやん at
鹿子木量平や文政神社について博物館ネットワークセンターにわかり易い資料があるので紹介します。
鹿子木量平は、宝暦3年(1753年)、飽田郡鹿子木村(現・熊本市北区鹿子木町)の庄屋宅に生まれ、幼いころから遊ぶ間も惜しんで勉学に励んだといいます。鹿子木村庄屋を務めているときに雲仙の大噴火(寛政4年)があり、大津波におそわれた村の救済に尽力した功績が藩に認められ、益城郡杉嶋手永の惣庄屋に任命されました。

                       鹿子木量平画像

文化元年(1804)年、52歳のときに、現在の八代市鏡町が含まれる野津手永の惣庄屋となり、「お国一の貧地」を治めることを任せられました。すぐに、人びとの生活を豊かにするために、干拓による新田開発を藩に願い出て実行しました。作業は困難の連続でいくつもの課題が待ち受けていましたが、彼は百町新地(文化2年)、四百町新地(文政2年)、七百町新地(文政4年)、と短期間で次々と新田開発に成功しました。
量平は天保12年(1841年)、89歳で亡くなり、その墓は3つの新地が交わる場所につくられました。さらに人びとは量平の偉業をたたえるために、没後70年にあたる明治43年(1910年)、墓の脇に神社を建て、量平を祭神としてまつり、感謝の念をもって参拝しました。これが文政神社で、量平の墓には、現在でも地域住民によって時折花が供えられ、感謝の心を伝えています。

                        文政神社


文政小学校の近くから脇道を少し入った田園風景のなかに、鹿子木量平(かなこぎ りょうへい)をまつった文政神社があり、その脇に量平・謙之助父子の墓があります。





県道14号線から海側には広大な田畑が広がっていますが、この土地はほとんどが江戸時代以降に干拓された土地です。文政神社がある文政地区も江戸時代までは干潟が広がり、文政年間(1818~1829年)に埋め立てられたため、この地名が付けられました。また、北出、外出とよばれる地区がありますが、この「出」は「入植によってできた新しい村」を意味しています。
現在では、県内でも有数の農業地帯となっている八代市鏡町も、当時は海に面した湿地が広がり、農業には向かず、漁業で生活を維持する人びとが多く、「お国一の貧地」とよばれるほど生活は厳しかったといいます。

     八代市鏡町両出交差点のすぐ傍にある県道をまたぐ貝洲加藤神社の大鳥居


ちなみに「手永」とは、細川藩独特の行政の単位です。江戸後期の肥後には51の手永があり、各手永の下にいくつかの村が構成されていました。その手永の責任者が惣庄屋でした。

県道42号線を古閑浜町から鏡町に向けて水無川を越えるとすぐ右側に龍神社があります。神社の中に「二の丸女相撲由来」という額縁が掛けられています、千丁町二の丸区竜神社において、女相撲保存会による相撲神事があるそうですが、その神事(相撲)の由来は、新地築造の折、工事最大の難工事は潮止めであったそうです。潮止め工事は何度も土砂を投げ入れ工事を進めましたが、その度に失敗を繰り返したそうです。お奉行様は、このことを案じて近郷近在より屈強の相撲取り衆を動員して潮止め口を踏み固めながら、無事工事を完成させたと、言い伝えられています。相撲神事が女相撲に取り替わったのは不明という事です。ここにも干拓事業の苦しかった状況が残されています。















  


Posted by マー君 at 14:04Comments(0)歴史