前本妙寺の住職の池上尊義氏が清正公信仰の特色は、宗派を超越してみられるところにあり、その意味では特定の人々や階層あるいは教団に支持されたものではなく、不特定多数の人々の参加を前提にしており、この点でまさに清正公信仰は熊本の庶民の信仰であると述べられています。また信仰の成立発展の過程は必ずしも明確ではないが、清正が以前から熱心な法華経の信者であり肥後に初めて日蓮宗を導入したことによって教団的に尊崇されたこと、また治水・干拓に示した名君としての清正に対する敬意の念、家系断絶に対する庶民的同情などが清正公信仰の背景になっているとも言われています。
佐藤伸二先生は八代平野の加藤神社を廻り、干拓と清正公信仰のかかわりを調べていかれました。八代平野の加藤神社は干拓地に多いがこれとは対照的に熊本平野の干拓地には加藤神社がない、何故なんだろう。そのような疑問を投げかけられています。
清正公信仰は加藤清正の子孫にとってみれば祖霊信仰・氏神信仰であり領民にとってみれば地域神信仰すなわち土地神であり地域神なのです。熊本において祖霊信仰としての色が濃く八代においては土地神の要素が濃く出た信仰と考えられないでしょうか、八代平野の加藤神社は八代市鏡町貝洲、八代市千丁町新牟田、氷川町宮原、八代市千丁町古閑出、氷川町網道、宇城市不知火町亀松、宇城市不知火町高良(高良八幡宮の加藤神社)などが1600年代から1800年代にかけて建造された加藤神社として現在まで残っているそうです。特に八代市鏡町貝洲の貝洲加藤神社の由緒書に文政年間、野津手永だった鹿子木量平が領民の為新地を開き新地の氏神様として本妙寺から清正公の神霊を勧請したことなど御鎮座由来が書かれています。熊本平野に比べて八代平野のほとんどが加藤・細川(松井)時代に干拓された土地から成り立っています。この干拓事業こそが清正公信仰を巻き起こす大きな原動力に成ったと思われます.

貝洲加藤神社

貝洲加藤神社鎮座由来

由緒書(神社にあります)
佐藤伸二先生は八代平野の加藤神社を廻り、干拓と清正公信仰のかかわりを調べていかれました。八代平野の加藤神社は干拓地に多いがこれとは対照的に熊本平野の干拓地には加藤神社がない、何故なんだろう。そのような疑問を投げかけられています。
清正公信仰は加藤清正の子孫にとってみれば祖霊信仰・氏神信仰であり領民にとってみれば地域神信仰すなわち土地神であり地域神なのです。熊本において祖霊信仰としての色が濃く八代においては土地神の要素が濃く出た信仰と考えられないでしょうか、八代平野の加藤神社は八代市鏡町貝洲、八代市千丁町新牟田、氷川町宮原、八代市千丁町古閑出、氷川町網道、宇城市不知火町亀松、宇城市不知火町高良(高良八幡宮の加藤神社)などが1600年代から1800年代にかけて建造された加藤神社として現在まで残っているそうです。特に八代市鏡町貝洲の貝洲加藤神社の由緒書に文政年間、野津手永だった鹿子木量平が領民の為新地を開き新地の氏神様として本妙寺から清正公の神霊を勧請したことなど御鎮座由来が書かれています。熊本平野に比べて八代平野のほとんどが加藤・細川(松井)時代に干拓された土地から成り立っています。この干拓事業こそが清正公信仰を巻き起こす大きな原動力に成ったと思われます.
貝洲加藤神社
貝洲加藤神社鎮座由来
由緒書(神社にあります)