花屋日記・文暁について        八代市本町3丁目にある正教寺

花屋日記・文暁について
正教寺と文暁、芭蕉、高桑蘭公、正岡子規、芥川龍之介、小林一茶 

【標識に書かれている内容】

文暁は正教寺十世 住持、了幻法侶上人のことで、文化十三年に八十二歳で没した。和漢の学問に通じ、九州における俳壇の宗匠的存在であった。芭蕉の臨終前後に著した「花屋日記」で中央に名が知られ、京都東山に芭蕉堂を建てた蕉門の中心人物、高桑蘭公(たかくわらんこう)はじめ多くの俳人たちと交流している。後世正岡子規をして1大奇書と感涙せしめ、芥川龍之介はこの「花屋日記」を土台として「枯野抄」を書いている。
小林一茶は寛政四年三月江戸を発ち、四国九州を旅行、八代に文暁を訪ね数か月逗留し、正教寺で正月を迎えている。

一茶31歳の時で「君が代や旅にしあれど笥(け)の雑煮」の句がある。
花屋日記・文暁について

※花屋日記

花屋日記は江戸後期の俳諧書で藁井文暁(わらいぶんきょう)編、最初は「芭蕉翁反古文・ばしょうおうほごぶみ」の書名で文化8年(1811年)刊、天保年間(1830~1844年)の再販で現書名となった。芭蕉の門人の手記や手紙を集めた形をよそおった偽書と扱われている。
文暁は自分が書いた本が「花屋日記」という名で再販された事は知りません。
芭蕉の生涯は寛永21年(1644年)~元禄7年(1694年)
文暁の生涯は享保20年(1735年)~文化13年(1816年)
この2人、文暁が生まれる前に芭蕉は亡くなっているので、文暁は生存中の芭蕉については、会ったこともないので芭蕉について本当の詳しい事はわかりません。ましてや芭蕉の臨終前後の事など詳しくわかるはずもありません。
文暁が「芭蕉翁反古文」で著わしたかったことは、どんなことでしょう?

後世になって芥川龍之介が 夏目漱石の臨終の際に居合わせた弟子たちの様子と、芭蕉の臨終にことよせて弟子たちのそれぞれの心中が、よく似ていると捉え、「枯野抄」という作品を作りました。漱石と芭蕉を置き換えての小説で、漱石とその門弟たちの関係を念頭に置いて書かれたものです。漱石にしろ芭蕉にしても、多くの弟子を持ち弟子たちに気を配りながら真面目に弟子の面倒を見てきました。しかし弟子たちは、師の臨終に際して、それぞれ自分の事ばかりしか考えていない。利己的な人間の弱さについて、人間の心を描いた作品になっています。
文暁が書いた「芭蕉翁反古文」がなければ芥川龍之介の「枯野抄」は多分世に出ていない作品です。と考えると一概に単なる偽書として葬り去ることができない作品でもあります。


高桑蘭公 享保11年(1726年)~寛政10年(1798年)
小林一茶 宝暦13年(1763年)~文政10年(1828年)






Posted by マー君 at 16:36│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。