2022年07月14日
森鴎外のお話
学問の神様、菅原道真の例を挙げるまでもなく、栄達の道に陰りが生じて肩を落とす人はいつの世にもいる。文豪森鴎外もその例に漏れない▼〈小生の異動は左遷だと職場の一同が話しています〉。37歳の鴎外はそんな泣き言を母に書き送った。1899(明治32)年、九州・小倉に転勤した直後だ。医学を修めたころ自分より成績の低かった同期の軍医が上司となり、不本意な転勤を命じられた▼陸軍を辞めようかと考えたが、軍医仲間から「自分から退けば上司の思うツボ」と慰留される。不満を抱かえて小倉へ赴き、師団の軍医部長に。やがて心境に変化が現れる▼「玉水俊虠・(たまみずしゅんこ)という学僧との出会いが大きかった。学徳があるのに荒れ寺に住み、俗事にとらわれない。生涯の親友となりました」。今川英子(ひでこ)・2年9か月ほどの小倉在勤中、鷗外は軍務のかたわら、アンデルセン『即興詩人』の翻訳などに励む一方、仏語を熱心に習い、九州一円で武将や学者の墓石を調べ歩く、庶民の価値観に親しんだのもこのころ。当時の日記を読むと、謙虚に自らを見つめ直した鴎外の姿が浮かぶ▼文豪が60歳で没して今月で100年。取材の足を延ばし、小倉の旧居から司令部まで通勤の道を歩いた。「鴎外橋」を渡り、作品の一節を刻んだ碑の前でたたずむ。人生の遠回りに見えた小倉時代がなければ、『雁』や『高瀬舟』『渋江抽斎』といった作品の深い味わいは生まれなかったのではないかと考えた。
2022/07/14 朝日新聞天声人語
今日は朝日新聞の書き写しを行いました。
天声人語、教材にもなっていて今回のおはなしも鴎外の事をよっぽど勉強していなければ少し読んだだけでは理解できません。
でも文学へのかけはしの一つには成るには違いありません。

森 鷗外(もり おうがい、1862年2月17日(文久2年1月19日[2]) - 1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。
石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医学部[注釈 2]卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより創作活動から一時期遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆した。
晩年、教育者として帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。
2022/07/14 朝日新聞天声人語
今日は朝日新聞の書き写しを行いました。
天声人語、教材にもなっていて今回のおはなしも鴎外の事をよっぽど勉強していなければ少し読んだだけでは理解できません。
でも文学へのかけはしの一つには成るには違いありません。

森 鷗外(もり おうがい、1862年2月17日(文久2年1月19日[2]) - 1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。
石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医学部[注釈 2]卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより創作活動から一時期遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆した。
晩年、教育者として帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。
Posted by マー君 at 11:52│Comments(0)