2017年12月20日
大森貝塚
1925年の今日(12月20日)は大森貝塚を最初に発見したアメリカ人のモースが87歳で亡くなった日であることを今日は何の日カレンダーで知りました。
そして大森貝塚が日本の考古学を芽生えさせるきっかけになった事を大田区のブログから初めて知りました。
考古学には興味はあっても考古学そのものの歴史も知らないなんて自分のことながら恥ずかしい思いがします。
大田区のブログ「大田区の史跡と歴史」を紹介します。
ー日本考古学の夜明け、モースが発見した大森貝塚ー
●大森貝塚の発見…明治10年(1877)
アメリカ人、エドワード・シルベスター・モースが貝塚を発見したのは、明治10年(1877)、品川から横浜までの鉄道開通5年後のことでした。横浜から新橋に向かう途中の大森駅付近で、写真のように鉄道建設のため削られた斜面に、貝が大量に露出しているのを見ました。モースは、それが貝塚であることを直感しました。多くの日本人が同じ風景を見ていましたが、誰も古代人が捨てた貝の堆積した跡だとは知りませんでした。
●モースが行った最初の発掘の様子
明治10年10月の記述から、『 今日、ドクターマレー、彼の通訳及び私は人夫2人をつれて大森の貝塚へ行った。人夫は採取した物を何でも持って帰らせる為に連れて行ったのである。人夫達はつるはし耨(くさぎ 鍬のようなものか)で、我々は移植で掘り始めた。(中略)我々がそこを堀回した形跡は何ひとつ無くなった。大雨が一雨降った後では、ここがどんな風になったかは知る由もない。私は幸運にも堆積の上部で完全な甕(かめ)二つと、粗末な骨の道具一つとを発見し、また角製の道具三つと骨製のもの一つを見つけた』。(モース「日本その日その日」東洋文庫 平凡社刊から)
● モースが最初に掘った場所がどこか明らかでない、大田区と品川区が競って記念碑を建てており、どちらも国指定史跡となっている。また国指定の史跡は記念碑の建っているわずか28.57・と言う狭さである、これは発掘場所が不明なためである。品川区では区立歴史館建設の時に、現在記念碑の建っているを場所を国鉄より買い取り調査を行った。
●大森貝塚の発掘品について……明治12年(1879)本格的発掘調査始まる
発掘された遺物は、縄文式後期の土器や土偶、石斧、石鏃、骨角器など、動物の骨はサル、シカ、犬、鯨を含む大量の貝殻でした。モースは発見された土器に「コード・マーク」と名づけました。土器の表面にナワ目模様が付いていたのです。驚くことに人骨も発見され、その骨が削られたりしていたことから、「食人」の風習があったのではないかと推測されました、未だ結論は出ていません。
●大森貝塚の発掘場所は「品川区大井」であった。本当は大井貝塚となるはずだったが、モース達が大森駅に降りて発掘に向かったため、駅名をとって「大森貝塚」となった。貝塚公園は正確に言うならば品川区に属すようです。大田区の石碑(昭和5年4月)はNTTデータービルの間を入った線路ぎわにあります。昭和29年国指定の遺跡に認定された。参考・『東京都品川区 大森貝塚』編集・発行 品川区教育委員会 昭和60年発行
●貝塚公園(品川区)から東海道線を見る、発掘当時の海側は平坦で、東京湾の海岸線まで見えた。貝塚を作った人たちは、縄文時代後期、紀元前650年頃と推定されています。
■埴輪形の公園トイレ(品川区の公園)
埴輪の形の公園トイレ、工夫があっておもしろい。公園はやや小高い丘にあり、東海道線越しに見える蒲田方向は低い平らな土地である。汽車の開通当時は東京湾の海が広がっていた。→
■大田区の遺跡・貝塚
大田区は武蔵野台地の東端にあたり、縄文時代の大森貝塚は海に面したはずれにあたります。台地の湧水が豊富で、関東ローム層の軟らかい土のため洞窟や集落を作りやすかった、そのために縄文弥生時代から人が住んでいました。区全体に遺跡が数多くあります。しかし鉄道が開通すると同時に、今と同じように宅地開発が行われ、遺跡が充分な調査を行われないまま工事され、古代の遺跡は破壊されました。特に明治の文学者「江見水蔭」が実名で貝塚の場所を紹介したため、中馬込の遺跡(馬籠貝塚)は調査がされないまま、素人の発掘者のため荒れ果ててしまいました。畑の表面近くに土器などが埋まっていたため、手軽に掘ることが出来た事が要因でした。

エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838年6月18日 - 1925年12月20日)は、アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。大森貝塚を発掘し、日本の人類学、考古学の基礎をつくった[1]。日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介した。名字の「モース」は「モールス」とも書かれる。
●生誕
1838年6月18日
アメリカ合衆国 メイン州 ポートランド
●死没
1925年12月20日
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州 セイラム
死因・脳溢血
●研究分野
動物学、オリエンタリズム
●研究機関
ハーバード大学
ピーボディー科学アカデミー
ボウディン大学
東京帝国大学
●主な業績
大森貝塚を発掘
日本で初めて進化論を体系的に紹介
●影響を受けた人物
ルイ・アガシー ダーウィン
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大森貝塚
東京都大田区山王・品川区大井にある貝塚遺跡。JR京浜東北線大森駅から大井町駅にいたる線路に面する地域に所在する。1877年(明治10)、アメリカの碩学(せきがく)、エドワード・モースが日本を訪れた際、横浜から新橋へ向かう途中の車窓から発見した。同年、わが国における最初の学術的な発掘が行われ、その後、英文と邦文でその結果が発表された。1955年(昭和30)に国の史跡に指定され、1986年(昭和61)には追加指定を受けているが、出土品は多種類の貝殻をはじめ、土器、土偶、石斧(せきふ)、石鏃(せきぞく)、人骨片、鹿やクジラの骨など多岐にわたり、これらは東京大学に保存され、国の重要文化財の指定を受けた。それまでの日本には考古学が存在せず、この発掘調査は日本の近代的考古学の出発点となる記念すべき出来事であり、大森駅のホームにある碑には「日本考古学発祥の地」と刻まれている。品川区立品川歴史館に関係資料を展示。JR京浜東北線大森駅から徒歩すぐ。

考古学発祥の地大森貝塚。場所は品川区太井町
大森貝塚の発見された場所は現在、遺跡庭園として整備されています。しかし縄文遺跡のモニュメントらしいものが少しあるだけで、遺跡が見れるわけではありませんでした。

歴史の教科書に出てくる有名な碑
JR京浜東北線が迫っています。モース博士達が発掘した場所は太井町でしたが、モース博士の論文には発見した正確な場所には触れておらず、たぶん博士達が発掘作業で乗り降りした駅が大森駅だったので「大森貝塚」と命名したものだと思います。

日本考古学の祖モース博士の像
モース博士は東京大学の教員に雇われ来日しました。横浜から東京へ向かう列車の窓から貝塚を発見したのは有名な話ですね。
彼は東京大学に赴任後、学生を引き連れ貝塚の発掘を行いました。このとき貝塚だけではなく人や動物の骨、縄文土器を発見したのです。日本の考古学の夜明けです。モース博士が「大森貝塚」を発見した当時の年齢は30代ですが、モース博士の晩年のイメージで作られたブロンズ像は見る人に間違った印象を与えるなと感じました。
東京写真紀行より一部転載
そして大森貝塚が日本の考古学を芽生えさせるきっかけになった事を大田区のブログから初めて知りました。
考古学には興味はあっても考古学そのものの歴史も知らないなんて自分のことながら恥ずかしい思いがします。
大田区のブログ「大田区の史跡と歴史」を紹介します。
ー日本考古学の夜明け、モースが発見した大森貝塚ー
●大森貝塚の発見…明治10年(1877)
アメリカ人、エドワード・シルベスター・モースが貝塚を発見したのは、明治10年(1877)、品川から横浜までの鉄道開通5年後のことでした。横浜から新橋に向かう途中の大森駅付近で、写真のように鉄道建設のため削られた斜面に、貝が大量に露出しているのを見ました。モースは、それが貝塚であることを直感しました。多くの日本人が同じ風景を見ていましたが、誰も古代人が捨てた貝の堆積した跡だとは知りませんでした。
●モースが行った最初の発掘の様子
明治10年10月の記述から、『 今日、ドクターマレー、彼の通訳及び私は人夫2人をつれて大森の貝塚へ行った。人夫は採取した物を何でも持って帰らせる為に連れて行ったのである。人夫達はつるはし耨(くさぎ 鍬のようなものか)で、我々は移植で掘り始めた。(中略)我々がそこを堀回した形跡は何ひとつ無くなった。大雨が一雨降った後では、ここがどんな風になったかは知る由もない。私は幸運にも堆積の上部で完全な甕(かめ)二つと、粗末な骨の道具一つとを発見し、また角製の道具三つと骨製のもの一つを見つけた』。(モース「日本その日その日」東洋文庫 平凡社刊から)
● モースが最初に掘った場所がどこか明らかでない、大田区と品川区が競って記念碑を建てており、どちらも国指定史跡となっている。また国指定の史跡は記念碑の建っているわずか28.57・と言う狭さである、これは発掘場所が不明なためである。品川区では区立歴史館建設の時に、現在記念碑の建っているを場所を国鉄より買い取り調査を行った。
●大森貝塚の発掘品について……明治12年(1879)本格的発掘調査始まる
発掘された遺物は、縄文式後期の土器や土偶、石斧、石鏃、骨角器など、動物の骨はサル、シカ、犬、鯨を含む大量の貝殻でした。モースは発見された土器に「コード・マーク」と名づけました。土器の表面にナワ目模様が付いていたのです。驚くことに人骨も発見され、その骨が削られたりしていたことから、「食人」の風習があったのではないかと推測されました、未だ結論は出ていません。
●大森貝塚の発掘場所は「品川区大井」であった。本当は大井貝塚となるはずだったが、モース達が大森駅に降りて発掘に向かったため、駅名をとって「大森貝塚」となった。貝塚公園は正確に言うならば品川区に属すようです。大田区の石碑(昭和5年4月)はNTTデータービルの間を入った線路ぎわにあります。昭和29年国指定の遺跡に認定された。参考・『東京都品川区 大森貝塚』編集・発行 品川区教育委員会 昭和60年発行
●貝塚公園(品川区)から東海道線を見る、発掘当時の海側は平坦で、東京湾の海岸線まで見えた。貝塚を作った人たちは、縄文時代後期、紀元前650年頃と推定されています。
■埴輪形の公園トイレ(品川区の公園)
埴輪の形の公園トイレ、工夫があっておもしろい。公園はやや小高い丘にあり、東海道線越しに見える蒲田方向は低い平らな土地である。汽車の開通当時は東京湾の海が広がっていた。→
■大田区の遺跡・貝塚
大田区は武蔵野台地の東端にあたり、縄文時代の大森貝塚は海に面したはずれにあたります。台地の湧水が豊富で、関東ローム層の軟らかい土のため洞窟や集落を作りやすかった、そのために縄文弥生時代から人が住んでいました。区全体に遺跡が数多くあります。しかし鉄道が開通すると同時に、今と同じように宅地開発が行われ、遺跡が充分な調査を行われないまま工事され、古代の遺跡は破壊されました。特に明治の文学者「江見水蔭」が実名で貝塚の場所を紹介したため、中馬込の遺跡(馬籠貝塚)は調査がされないまま、素人の発掘者のため荒れ果ててしまいました。畑の表面近くに土器などが埋まっていたため、手軽に掘ることが出来た事が要因でした。

エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838年6月18日 - 1925年12月20日)は、アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。大森貝塚を発掘し、日本の人類学、考古学の基礎をつくった[1]。日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介した。名字の「モース」は「モールス」とも書かれる。
●生誕
1838年6月18日
アメリカ合衆国 メイン州 ポートランド
●死没
1925年12月20日
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州 セイラム
死因・脳溢血
●研究分野
動物学、オリエンタリズム
●研究機関
ハーバード大学
ピーボディー科学アカデミー
ボウディン大学
東京帝国大学
●主な業績
大森貝塚を発掘
日本で初めて進化論を体系的に紹介
●影響を受けた人物
ルイ・アガシー ダーウィン
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大森貝塚
東京都大田区山王・品川区大井にある貝塚遺跡。JR京浜東北線大森駅から大井町駅にいたる線路に面する地域に所在する。1877年(明治10)、アメリカの碩学(せきがく)、エドワード・モースが日本を訪れた際、横浜から新橋へ向かう途中の車窓から発見した。同年、わが国における最初の学術的な発掘が行われ、その後、英文と邦文でその結果が発表された。1955年(昭和30)に国の史跡に指定され、1986年(昭和61)には追加指定を受けているが、出土品は多種類の貝殻をはじめ、土器、土偶、石斧(せきふ)、石鏃(せきぞく)、人骨片、鹿やクジラの骨など多岐にわたり、これらは東京大学に保存され、国の重要文化財の指定を受けた。それまでの日本には考古学が存在せず、この発掘調査は日本の近代的考古学の出発点となる記念すべき出来事であり、大森駅のホームにある碑には「日本考古学発祥の地」と刻まれている。品川区立品川歴史館に関係資料を展示。JR京浜東北線大森駅から徒歩すぐ。

考古学発祥の地大森貝塚。場所は品川区太井町
大森貝塚の発見された場所は現在、遺跡庭園として整備されています。しかし縄文遺跡のモニュメントらしいものが少しあるだけで、遺跡が見れるわけではありませんでした。

歴史の教科書に出てくる有名な碑
JR京浜東北線が迫っています。モース博士達が発掘した場所は太井町でしたが、モース博士の論文には発見した正確な場所には触れておらず、たぶん博士達が発掘作業で乗り降りした駅が大森駅だったので「大森貝塚」と命名したものだと思います。

日本考古学の祖モース博士の像
モース博士は東京大学の教員に雇われ来日しました。横浜から東京へ向かう列車の窓から貝塚を発見したのは有名な話ですね。
彼は東京大学に赴任後、学生を引き連れ貝塚の発掘を行いました。このとき貝塚だけではなく人や動物の骨、縄文土器を発見したのです。日本の考古学の夜明けです。モース博士が「大森貝塚」を発見した当時の年齢は30代ですが、モース博士の晩年のイメージで作られたブロンズ像は見る人に間違った印象を与えるなと感じました。
東京写真紀行より一部転載
Posted by マー君 at 10:27│Comments(0)