茨木のり子さんのお話から

マー君

2020年01月05日 11:55

今日も西日本新聞【春秋】から・・
「わたしが一番きれいだったとき」や「自分の感受性くらい」で「戦後現代詩の長女」と呼ばれた茨木のり子さん。正月休みに詩集を読み返していたら、こんな一節が目に留まった
▼<人間は誰でも心の底に しいんと静かな湖を持つべきなのだ>。続いて秋田県の田沢湖が登場し、人間の魅力とはそんな深く青い湖から発する霧-と結ぶ
▼田沢湖には東日本大震災の翌年、東北旅行を応援する取材で訪れたことがある。夕焼けで真っ赤に染まる湖面に息をのんだ。水深423メートルの日本一深い湖はその深さゆえ冬でも凍らないと聞いた。どんな逆境にも揺らがない深い思想と人間性を持ちなさい-。茨木さんはそう言いたかったのだろうか
▼一方で、詩集のこの一節も心に刺さった。<言葉が多すぎる というより 言葉らしきものが多すぎる というより 言葉と言えるほどのものが無い この不毛 この荒野 賑々(にぎにぎ)しきなかの亡国のきざし>
▼昨年終盤の国政は「桜」騒動に明け暮れ、統合型リゾート施設(IR)を巡る収賄容疑で担当副大臣だった衆院議員が逮捕され終わった。官僚は公文書を隠し捨てる。政治家も社長も説明責任を果たさない。亡国とは言わぬが、この国は荒野ではとの思いが募る
▼2020年が動きだす。今年は責任ある立場の人から真実の言葉を「多すぎる」とうんざりするほど聞きたい。心に深い湖を養い、その真贋(しんがん)を見極めたい。

茨木 のり子(いばらぎ のりこ、本姓・三浦(みうら)、1926年(大正15年)6月12日 - 2006年(平成18年)2月17日)は、日本の詩人、エッセイスト、童話作家、脚本家。
経歴
大阪府大阪市生まれ、愛知県西尾市育ち。愛知県立西尾高等女学校を卒業後上京し、帝国女子医学・薬学・理学専門学校薬学部に進学する。上京後は、戦時下の動乱に巻き込まれ、空襲・飢餓などに苦しむが何とか生き抜き19歳の時に終戦を迎え、1946年9月に同校を繰り上げ卒業する。帝国劇場で上映されていたシェークスピアの喜劇「真夏の夜の夢」に感化され劇作の道を志す。「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれたり、自作童話2編がNHKラジオで放送されるなど童話作家・脚本家として評価される。1950年に医師である三浦安信と結婚。埼玉県所沢町(現、所沢市)に移り住む。家事のかたわら『詩学 (雑誌)』の詩学研究会という投稿欄に投稿を始める。最初は二篇を投稿し、そのうちの一篇である「いさましい歌」が選者村野四郎に選ばれ、1950年9月号に掲載される。1953年に川崎洋からの誘いで、「櫂 (同人誌)」の創刊にたずさわる。創刊号は川崎洋・茨木のり子の二人だけの同人誌だったが、二号からは谷川俊太郎、三号から舟岡遊治郎・吉野弘、四号から水尾比呂志が参加し、その後の第二次戦後派の詩人を多数輩出するようになった。1976年より韓国語を習い始め、韓国現代詩の紹介に尽力する。1991年に『韓国現代詩選』で読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。 2006年2月17日、くも膜下出血のため[4]東京都西東京市東伏見の自宅で死去。享年79。夫・安信と1975年に死別してから独り暮らしで、19日に訪ねて来た親戚が寝室で死亡しているのを発見した。すでに遺書は用意されてあった。鶴岡市加茂の浄禅寺にある夫の眠る墓地に埋葬された。

「わたしが一番きれいだったとき
 わたしの頭はからっぽで
 わたしの心はかたくなで
 手足ばかりが栗色に光った

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの国は戦争で負けた
 そんな馬鹿なことってあるものか
 ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた」
(『茨木のり子詩集』・「私が一番きれいだったとき」より引用)

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