縄文時代以前の時代を旧石器時代又は先土器時代とか無土器時代と呼ばれています。
土器が出現する以前なので「先土器時代」、土器がない時代なので「無土器時代」、縄文時代以前なので「先縄文時代」と呼んでいるそうですが、先縄文時代という呼び名で区分しているのも珍しいので紹介しました。
いずれにしてもはっきり決まっていないということですね。
●先縄文時代(20万年前~紀元前1万年)
縄文時代以前の時代は先縄文時代と呼ばれていますが、土器を使わないという意味から無土器時代とも、あるいは新石器時代に対して旧石器時代とも言われています。
人は二足歩行する事と、道具を作り、使うことによって猿と区別されましたが、度重なる氷河期という環境の変化にもよく対応して今日に至りました。人々は洞窟や岩陰に住み、狩をして生きてきました。人としての進化とともに道具としての石器も進化し、各種の石器類が作られました。
単に石器を作ると言っても使用目的に応じて機能的なスタイルを求めなければならず、石材の選択や石に対する知識も豊かでなければなりません。人類が初めて作った道具としての石器が全世界を通じて同じスタイルで、同じような形の変化をみせるのは何を意味しているのでしょうか。
●縄文時代(紀元前1万年~紀元前3世紀)
表面に縄目のような文様を施してある土器を縄文土器といいますが、この様な土器が使われた時代を縄文時代と呼んでいます。人々は海辺や遊水地に近い岡の上などに親族のものが集まって竪穴住居などを作って住み、貝や魚をとったり、山で狩りをしたり、もっぱら自然物の採集によって暮らし、まだ身分や貧富の差などはありませんでした。人々は初めて土器を作ることを覚え、縄目のような文様をはじめ、各種の文様で土器を飾りました。この土器を使って煮たり焼いたりするなど料理の方法も多くなり、食物も多彩になって、食生活が豊かになりました。
●火国の縄文文化
熊本では、明治12年(1879)年に米国人E・S・モースにより八代郡竜北町大野貝塚が発掘されて以来、小林久雄氏や坂本経堯氏など地元の研究者による貴重な遺跡の調査が行われ、九州の縄文文化研究をリードしてきました。
縄文時代は土器の形や文様の違いといった特徴から「型式」に細分し、全時代を草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分します。
熊本県は、地形的に変化に富み、自然環境に恵まれ、草創期から晩期までの約2千カ所の遺跡があります。これらの多くの遺跡から豊富な遺構・遺物が発見されています。
【大野貝塚・おおのかいづか】・・竜北公園に竜北東部小学校之址という記念碑があります、造成されて今は公園になっていますがその昔この辺りに大野貝塚がありました。
熊本県八代(やつしろ)郡氷川(ひかわ)町大野、国道3号沿いの同地区の小学校付近一帯にある遺跡。縄文時代後期の土器片、人骨などの出土が知られているが、近年ほとんどの地域が宅地化して壊滅寸前にある。本貝塚は1879年(明治12)モースが九州旅行中同貝塚を訪れており、モースの滞日日記『日本その日その日』にも掲載され、九州地方では学界にもっとも古く知られた縄文文化の貝塚遺跡の一つである。
また同県下宇城(うき)市松橋(まつばせ)町大野にも同一名の貝塚がある。こちらの大野貝塚も国道3号沿いにあり、縄文後期末の御領式土器の時期の貝塚で、人骨を出土している。後者は別名を、所在地の旧地名当尾(とうのお)村にちなんで、当尾貝塚ともいう。両者は直線距離にして8キロメートル余の地にあり、誤りやすい。
法道寺薬師堂の楠
国道3号氷川橋の北の集落が法道寺集落である。
法道寺は、ここにあった古い天台宗寺院で、このあたり一帯は法道寺の寺地だったようだ。その後、廃寺となってしまったが、本尊の薬師如来は残され、それを安置するために薬師堂が築かれた。現在、薬師堂の前には、まるで仁王さんのように、2本の大クスが並んで立っている。薬師堂建立と同時に植えられたのでないかと考えられているようだ。
法道寺の2kmほど北に大野貝塚がある。大森貝塚を発見したエドワード・モースが、明治12年(1879)、大野貝塚を調査した。その際、このクスノキを見て感激し、スケッチを残したそうである。(以上、ほとんど上記「地域発 ふるさとの自然と文化」から引用)
そのスケッチは、モースの著書にも載っているそうだから、古くより知る人ぞ知るクスノキだったわけだ。しかし、なぜか環境省巨樹データベースには登録されていない。
西平貝塚(にしびらかいづか)・・この貝塚にもモースは立ち寄って発掘調査しているようです。氷川町教育委員会 生涯学習課の史料より・・
西平貝塚は明治12年(1879年)、E・モースによって発掘が行われており、日本考古学の黎明期と共に出発した古い歴史を有しています。標高約50mの台地上に位置し、西平式土器・御領式土器の後・晩期を中心として、押型文土器、中期の並木式土器などが出土します。九州の縄文時代後期を代表する西平式土器はこの遺跡を指標としています。土器の他に石器(十字形石器・石ぞく・磨製石斧等)・人骨・獣骨が表採されています。
■時 期:縄文時代中期~晩期(約5000~3000年前)
■所在地:氷川町高塚字谷郷・高塚