●八代の松井家について
松井氏は、室町時代には足利将軍家に仕える幕臣だった。足利義輝が永禄8年(1565年)に殺害されると(永禄の変)、松井正之の子松井康之は、同じく足利将軍家に仕えていた細川藤孝(幽斎)と共に、義輝の弟足利義昭を将軍に擁立するために行動する。
やがて細川藤孝のもとで働くようになった康之は、藤孝の嫡男細川忠興(三斎)と明智光秀の三女玉(ガラシャ)の婚礼で玉姫の輿入請取役を務めている。
信長の下で細川氏は丹後国の領主となり、その重臣として康之は丹後国松倉城を任せられた。生涯50余度の合戦に出陣した康之は武功高く、石田三成の家老島左近や上杉景勝の家老直江兼続らと並んで世に名家老と謳われた。康之の働きぶりをみた豊臣秀吉は石見半国18万石に取り立てようともちかけたが、康之は引き続き細川家に仕えることを望んでこれを辞退した。その忠節に感じ入った秀吉は、康之が信長から拝領していた山城国相楽郡神童寺村及び愛宕郡八瀬村の知行を安堵する朱印状に「深山」の茶壺を添えて贈っている。これが後世「十八万石の壺」と呼ばれる名器である。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに、康之と嫡男松井興長は藩主細川忠興に従って奮戦し、東軍勝利に貢献した。戦後細川氏は豊前国と豊後国(現在の福岡県と大分県の一部)で39万石余りの大名となり、康之は豊後国木付(杵築)城を任せられて2万5000石の知行地が与えられた。
興長は康之の次男として天正10年(1582年)に生まれ、兄が文禄・慶長の役で戦没すると嫡子となり、慶長16年(1611年)に康之が隠居すると家督を相続した。
八代城には現在お城としての建物はありません。寛政12年(1672)2月落雷により第一第二天守閣が焼失しましたがその後再築されずに寛政9年(1797)10月火災により大書院二階月見櫓を焼失、この時点から天守閣がないお城の状態が現在まで続いています。
肥後国八代城主へ
寛永9年(1632年)肥後国52万石の加藤忠広が改易されると、替わって細川忠利が54万石で熊本に入部した。肥後国で興長には玉名郡と合志郡に3万石が与えられた。藩主忠利の父忠興(三斎)は肥後国南部の八代城をその隠居城としたが、この城は薩摩の島津氏に対する押さえとして特に一国一城令の例外とされていた。正保2年(1646年)にその三斎が死去すると、八代城は興長が預かることになり、以後代々松井氏が八代城代を務めた。興長は忠興の次女古保(こお)を正室とし、三斎の六男を養嗣子に迎えて(松井寄之)、細川氏の別姓である「長岡」を賜り、長岡佐渡守と称した。こうして松井氏は熊本藩の実質的支藩である八代3万石の領主として幕末に至る。
松井氏は宮本武蔵と親交があったことで知られる。松井家には、武蔵が細川家に仕官する直前に興長に宛てた書状(長岡佐渡守宛書状)が残っており、また武蔵が熊本藩の客将となった後も寄之が武蔵を後援し、自身もその兵法の弟子となっている。寄之はやがて病床に臥すようになった武蔵の身の世話をしていたことも、寄之と武蔵の養子宮本伊織との間に交わされた多くの書状から明らかになっている。こうして武蔵の手による水墨画や工芸品などの文物の多くが松井家に伝えられた。
秀吉から安堵されていた山城国の知行地は幕府からも安堵を得ており、このため松井氏は細川家家臣として陪臣であるとともに幕府直参としての横顔も併せ持つ特殊な家となった。松井家当主の代替わりおよび将軍の代替わりに際しては、その都度江戸に出府して将軍に御目見得している。
細川家では世襲家老家の松井氏・米田氏・有吉氏を上卿三家と呼んだが、中でも松井氏は細川一門として代々筆頭家老を勤めた。 明治維新後は、万石以上の大身家老家として明治25年(1892年)に松井敏之が華族に列し男爵を授爵している。
●松井家
戦国時代末期、松井康之は細川藤孝(幽斉)に従って戦功を立て、藤孝の養女を妻として所領を与えられ、以後、代々細川家に仕え、細川一門と同格の重臣扱いを受けていました。細川家世襲三家老の筆頭の地位にあった松井興長が八代城主となり、以後10代、約220年にわたって八代城下町とその周囲を支配しました。松井家は康之の功により、山城国(現京都府)に知行地を与えられ徳川将軍の直参として自家の代替わり、将軍の代替ごとに江戸に参勤するという特殊な家柄でもありました。
また、細川家とともに文化芸能にも秀でた家柄で、代々古流茶道や金春流などの能を伝えています。現在の松井邸は「松浜軒」として知られています。
松浜軒(しょうひんけん)
八代市
八代市北の丸町にある旧八代城主松井家(細川藩の筆頭家老家)の邸名。3代直之が生母のために建てたお茶屋で、浜のお茶屋とも言われています。松浜軒の庭園は四季折々の花が美しいことで知られており特に肥後花菖蒲(しょうぶ)は有名。正門脇には松井家歴代の文化財を紹介する展示施設もあります。国指定名勝。
松井文庫(まついぶんこ)
八代市
八代城主で肥後細川藩の家老をつとめた松井家。松井家代々の所蔵品を集めたのが、松井文庫です。武具をはじめ、陶磁器、漆器、書画、能面・能衣装など、八代の文化の高さを今に伝える名品がそろっています。また、千利休絶筆、宮本武蔵の作書画や木刀など、歴史的に興味深いものが所蔵されています。松浜軒内の展示施設「驥斎(きさい)」では、季節ごとに茶道具や雛人形などが展示されています。
春光寺(しゅんこうじ)
八代市
八代城主松井家の菩提寺(臨済宗)で、3代直之によって創建されたもの。当初は小倉にあったものを、数度の移築を経て現在地に落ち着いたとされています。約33,000平方メートルの境内には松井家城主の墓が整然と並ぶ廟があり、そのほか殉死した家臣の墓や高浜虚子をはじめとする多くの句碑があり、「句碑の寺」とも呼ばれています。
八代市古麓町にある春光寺