竹原神社の「稚児土俵入り」

マー君

2017年10月19日 15:16

今日、10月19日は八代市竹原町にある竹原神社で秋季大祭の恒例行事、子どもの無病息災を祈る「稚児土俵入り」が行われました。
次男坊の嫁に付いて双子の孫を連れて一緒に行く事になり,始めて「稚児土俵入り」という行事を見る機会に出会いました。
これは竹原神社の秋季大祭の恒例行事として、1975年から始まったそうです。
広域八代相撲連盟の力士が、紅白のねじり鉢巻と化粧まわしを身につけた生後6ヶ月~3歳未満の赤ちゃんを抱え土俵入り。「よいしょ、よいしょ」の掛け声に合わせ四股(しこ)を踏むという愛らしい行事ですが泣く子もいれば寝ている子もあり、様々な子供の姿を見る事が出来ます。
私どもの孫達は神事姿のまわしや鉢巻をするのも嫌がり、いざ本番になると二人とも大泣きで抱えている力士の方には気の毒で申し訳ない気持ちになりましたが、泣く子供が多いせいか力士の方はケロッとしておられました。
出かける頃から天候が気がかりでしたが何とか土俵入りが終わるまで雨が降らなかったのは有難いことでした。






竹原神社
 御祭神:天御中主尊( あめのみなかぬしのみこと)
 祭礼日:10月19日
 境内社:4社
 由緒:この地は、妙見神が渡来した竹原の津跡と考えられています。
 「肥後国誌」などによると、天武帝白鳳9年(680)の秋、中国明州(寧波)から妙見神が眼深検校・手長次郎・足早三郎の三人に姿を変え、亀蛇の背に乗って海を渡り、この八代郡土北郷八千把村竹原ノ津に上陸し、約3年間仮座したと伝えています。その後、同11年(682)益城郡小熊野村の千代松が峯に移って鎮座し、さらに天平宝字2年(758)に八代郡土北郷横嶽ノ峯に移り、その地に妙見上宮が創建されました。
 その由来により、この地に妙見神を奉り、竹原妙見宮と呼ばれました。文治2年(1186年)、後鳥羽天皇の時代に現在の宮地妙見宮が建てられたのに続いて、竹原妙見宮が建てられたと伝えられています。天正16年、小西行長の兵火にかかり焼失。後、加藤清正によって再建されました。そして、明治元年(1868)に神仏分離令が出されたため、明治4年(1871)に竹原妙見宮から竹原宮(現在の竹原神社)となりました。

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