八代神社(妙見宮)
八代妙見祭が行われる八代神社は明治3年(1870年)までは妙見宮と呼ばれた。妙見宮は北極星・北斗七星を象徴とする
妙見神を敬い心のよりどころとする妙見信仰という仏教の信仰が根強い
神仏習合の妙見菩薩をお祀りしていたお寺でした。
明治4年(1871年)、明治政府の
神仏分離令と、明治の
廃仏毀釈により妙見信仰という仏教の信仰を否定し、名称も「八代神社」になりお祀りする神様も「妙見大菩薩」を「天御中主神」として祀られることになりました。
妙見祭は九州三大祭りの一つであります。妙見信仰がしっかり残っている八代の人々は妙見祭りは八代神社のお祭りなのですが、お祭りの本尊は当然妙見大菩薩という仏さまだと思い祭りを行っています。明治の宗教政策は信仰と祭祀に歪みを生むことになりました。
【妙見神】
妙見神とは、北極星・北斗七星の象徴である。八代妙見宮は神道と仏教の両部の宮寺で、広く崇敬を受け、八代、下益城、芦北三郡の一の宮として栄えました。明治4年(1871年)、神仏分離令により、天之御中主神、国常立尊を祭神とし、社名を八代神社と改められ、県社となりました。
【神仏習合・しんぶつしゅうごう】(ブリタニカ国際大百科事典より)
外来の仏教信仰と固有の神祇信仰とを融合調和すること。神仏混交ともいう。最初,仏教が主,神道が従であり,奈良時代には多気大神宮寺などの神宮寺の建立として現れ,平安時代には神前で読経したり,神に菩薩号をつけるなどの例が多くなり,また本地である仏,菩薩が日本でかりに神の姿となったとし,阿弥陀如来の垂迹 (すいじゃく=仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れること。) が八幡神,大日如来の垂迹が伊勢大神であると説く本地垂迹説が起こった。
【神仏分離・しんぶつぶんり】(ニッポニカより)
神仏判然ともいい、主として明治維新直後に行われた新政府による神仏習合(しゅうごう)の禁止と両者の分離を図る宗教政策をいう。
仏教伝来以来、神道(しんとう)は1000年余にわたって徐々に仏教と習合し、長らく神仏習合(神仏混淆(こんこう))の時代が続いた。近世になると儒学や国学の排仏思想によって、神道から仏教色を排除する動きが出現し、水戸藩(茨城県)や岡山藩、会津藩(福島県)で地域的な神仏分離が行われた。この排仏意識は幕末に至っていっそう強まり、水戸藩や薩摩(さつま)藩(鹿児島県)では過激な寺院整理が行われた。また石見(いわみ)国(島根県)津和野(つわの)藩でも最後の藩主亀井茲監(これみ)によって独自の神社・寺院改革が行われ、維新政府の宗教政策の青写真となった。
維新政府は神祇官(じんぎかん)を再興して祭政一致の制度を実現しようと、この津和野藩藩主亀井茲監や福羽美静(ふくばびせい)、大国隆正(おおくにたかまさ)を登用し、最初の宗教政策ともいえる神仏分離を全国的に展開させた。まず1868年(慶応4)3月17日、神祇事務局は、諸国神社に仕える僧形(そうぎょう)の別当(べっとう)・社僧に復飾(還俗(げんぞく))を命じ、ついで28日太政官(だじょうかん)は神仏分離令(神仏判然令)を発して、(1)権現(ごんげん)などの仏語を神号とする神社の調査、(2)仏像を神体とすることの禁止、を全国に布告した。これ以後全国の神仏混淆神社から仏教色がすべて排除されるが、近江(おうみ)(滋賀県)日吉(ひえ)山王社のように過激な神仏分離が多発したので、太政官は同年4月10日には、神仏分離の実施には慎重を期すよう命じた。しかし、政府の威令がいまだ行き届かず、苗木(なえぎ)藩(岐阜県)や富山藩などの各藩や政府直轄地では、地方官がこれを無視して強硬な抑圧・廃仏策を進めたため、寺院の統廃合など神仏分離を超えた廃仏棄釈(きしゃく)とよばれる事態が1874年(明治7)ごろまで続いた。
【廃仏棄釈・はいぶつきしゃく】(ニッポニカより)
江戸時代から近代にかけての仏教排斥思想。この思想は大別して二つの時期がある。一つは朱子学の封建倫理の立場からの廃仏思想で、論旨は〔1〕神仏習合を否定し、神と仏を区別する、〔2〕寺が檀家(だんか)制度を利用し民衆より収奪することを批判し、仏教本来の救済思想に戻す、〔3〕反権力的思想をもつ日蓮宗不受不施(にちれんしゅうふじゅふせ)派などの宗派を抑える、などである。論客は藤原惺窩(せいか)、林羅山(らざん)、熊沢蕃山(くまざわばんざん)ら。その思想の影響は、幕府では1665年(寛文5)「諸宗寺院法度(はっと)」「諸社禰宜神主(ねぎかんぬし)法度」に現され、藩では1666年会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)、水戸(みと)藩主徳川光圀(みつくに)、岡山藩主池田光政(みつまさ)らの寺院整理政策、一村一鎮守制の実施に具体化された。三藩ともほぼ半数の寺が破却、神仏習合は否定されている。この段階では神仏を分離することに意が注がれた。
これに対しもう一つは幕末から明治維新にかけての廃仏棄釈で、それは国学、水戸学の「敬神廃仏」の思想による。その代表として天保(てんぽう)年間(1830~44)の水戸藩徳川斉昭(なりあき)の廃仏棄釈がある。このとき藩は190か寺を破却し、領内寺院から撞鐘(どうしょう)、半鐘、鰐口(わにぐち)などを提出させ大砲の材料とした。また寺請(てらうけ)制度を廃止し神道請(しんとううけ)にかえ、村ごとに氏子帳をつくらせた。ほかに仏教的色彩の強い年中行事も廃止させた。このような動きは幕末には全国各地の国学思想が強い所でも小規模ながら行われている。廃仏棄釈政策は1868年(明治1)政府の布達により全国で行われ、多くの寺が破却、仏像・仏具などの文化財が消滅した。
明治の廃仏毀釈の影響で妙見菩薩を天之御中主神に置き換えられました。
とはいえ水天宮なども現在は天之御中主神を祭神の一柱としており、妙見菩薩だけが天之御中主神になったわけではありません。
妙見菩薩信仰は古くからある北極星の信仰が仏教的になったものでしたが、天之御中主神への信仰が出来たのは中世のことです。ですが信仰はそこまで広がらず、江戸時代に国学者により神道の主神として天之御中主神を置く考えが生まれても民衆には無名でした。廃仏毀釈がなければ私たちが天之御中主神社を見かけることはなかったかもしれません。
「平成28年熊本地震」震度1以上の地震回数
4/14ー4/30 (回数)3024 (累計)3024
5/1 -5/31 529 3553
6/1 -6/30 217 3770
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8/1 -8/31 111 3994
9/1 -9/31 74 4068
10/1-10/31 55 4123
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11/12 1 4137
11/13 3 4140
11/14 1 4141
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11/22 3 4152
11/23 3 4155 (震度3)
11/24 1 4156